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大阪の占い師 サワツ純子 のタロットブログです。たまに理屈っぽい日常のああだこうだも入っています。
長文OK・お暇な方のみお読み下さいませ。(・∀・)サワツ純子
※各ブログ記事へのインデックスを作ってみました。良ければご利用ください※
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興味のある方はどうぞお越しくださいませ。
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前の記事では、
人はいい気持ちを楽しむために生きるのだ、ということを書きました。
人は、いい気持ちになったり楽しんだりするためには、進んで苦労や困難をも引き受けるものだということ。
自分の楽しみや希望のためにする苦労や困難には耐えられるけれど、ただ面倒なことを回避するための苦労や困難は人を疲弊させてしまうこと。
自分が何を楽しく思い、何を心地よく感じるのかを見極めることが結構大事なこと。
それが分からないとしあわせになりにくいものだと書きました。
今日は、前の記事で予告しておいた『人は社会的な生き物である』ということについて書きます。
自分の気持ち良さを求めるために他人を犠牲にしたら、その反動が必ずやってくる、ということ。と同時に、どこかでいいことをすると、いつかそれが自分に返ってくるものだということも言えます。そんなことはきっと、みなさんご存知でしょうけど。
*-*-*-*-*-*-*
一枚の巨大な布を思い浮かべてみてください。そうですね、たとえば日本じゅうを覆うくらいの。
この布は薄い部分や厚い部分があったり、途中で継ぎはぎがあったり、破れかかっている場所や、真新しい場所もあるのです。
この布を、シワが寄らないようにうまく地面に敷こうとしたら、すごく難しそうだと思いませんか。
力の加減や地面の具合で布はすぐにシワが寄ってしまいます。あまり引っ張ると布の弱い部分や傷んだ部分が破けてしまうかも知れません。破けてしまえば、そこからまた力のバランスが崩れてしまい、布を真っ直ぐ歪みなく保つのは難しくなります。あっちを直せばこっちが歪み…。
ある一部分を綺麗にシワなく敷けたと思っても、どこか別の場所の歪みを直し始めたら、せっかく綺麗に敷けた部分も修正しなくてはなりません。いったん綺麗に敷けた場所を手直しするのがイヤだとしたら…途中のどこかで決定的な、とても大きな歪みが出来るのを仕方なしとあきらめなければなりません。布をより良く保つためには、いつもいつもどこかで調整や修正が必要で、どこか遠くの場所の調整や修正は、かならず「ここ」にも関係してきます。
もう、何のたとえ話をしようとしているのかお分かりだと思います。この巨大な一枚の布は、まるで人間の社会の振る舞いそっくりなのです。どこかで完全な美しさを保とうとすると、そのしわよせが必ず別の場所に行く。どこかで起こった破れは必ずここにも影響が及んでくる。新しくて分厚い場所は引っ張りにも刺激にも強くて、古く薄い場所はわずかな力が加わるだけで破れてしまう。強い布と弱い布を継ぎ足せば弱い布が先に破れる。強い布もいつか古びて弱くなる。弱くて破れた布は新しいものと交換される…
引っ張りに強い部分が多くなれば、その分だけシワのない美しい面を広げることが出来ます。大丈夫、と思ってある場所を強く引っ張ったら、そこからとても遠く離れた弱い部分で、すごく大きな破れが出来たりもします。良いことも悪いことも、この一枚の巨大な布のどこかで起こることは、他のすべての部分と無関係ではないのです。
*-*-*-*-*-*-*
この巨大な一枚の布のように、わたしや、あなたや、誰かがしたことは、直接的に、もしくは間接的に、どこかに影響を及ぼしています。
先述のたとえ話のように、強引に物事を成せば、その良いことも悪いこともどこかに何かの影響を与えるでしょう。強い部分はそれに耐えますが、どこか弱いところでその影響が表れたりします。物事が起きた場所と、影響が表れた場所は、全然無関係に思えるほど遠く離れているときもあるものです。
わたしや、あなたや、誰かの身の上に起こったことは、どこかで誰かが成した行為の影響を多かれ少なかれ受けている可能性があると言えるのです。たとえそれが直接的な因果関係として、目に見える形ではなくても。
例えば、あなたはいつも大嫌いな上司に理不尽に怒られているとします。ささいな、ミスとも言えないようなミスをことさらに取り上げて感情的に責めることで、その上司は自分のうっぷんを晴らしているように見えます。
その上司は、彼の奥さんが家で長々と愚痴をこぼした次の日に決まって、知らず知らずあなたに八つ当たりをしているのかも知れません。彼の奥さんは自分の容姿がコンプレックスで、子供を幼稚園に迎えに行った際に時々会う大嫌いな近所のママが、ど派手なピンク色のブラウスを来ているのを見ると我慢が出来ないくらいイライラして、ご主人であるあなたの上司に延々と愚痴をこぼしてしまうのかも知れません。ど派手なママは生理が近づくと何だかむしゃくしゃして、年甲斐も無いと思いながらついピンクのブラウスを着てしまうのかも知れません。どこかの見知らぬ女性の生理周期のせいであなたが怒られる羽目になるなんて、まったく馬鹿げていると思いますよね。でも、もしど派手ママがピンクのブラウスを着ていない時にはあなたが上司に怒られないのだとしたら…あなたと見知らぬど派手ママとの間には立派な繋がりがあると言えるでしょう。
例えばあなたが毎日会社に通うのはお給料を頂くためでしょうが、そのお給料は会社の製品やサービスを購入してくれる消費者のサイフから出てきたものです。あなたは貰ったお給料で別のものを買ったりして、一消費者として生活しています。
あなたの会社が作る製品がもし、外国の安い労働力によって作られているものなら、製品を作っているあなたの会社や、その製品を購入する消費者は、外国のたくさんの労働者を賃金によって養っている一方で、その国の同業他社を追い詰めていることにもなります。どこかの国の一人の労働者が職を失って、病気になっても医者にも行けず死んでしまったとしても、一体わたしたちに何ができるというのでしょう?わたしたちはその労働者の死に対してまったく責任はありません。でも……関係は、あるのです。
*-*-*-*-*-*-*
わたしたちは、他のすべての人たちや物事、あらゆる時空と、巨大な一枚の布のように繋がっているのです。
どこかで起こった犯罪は、罪を犯す方も、犠牲になる人の方も、わたしたちと無縁ではありません。どこかで起こった天災による被害も、どこかで人知れず亡くなってしまう命も、一枚の巨大な布のシワや、傷や、破れ目のようなものなのです。これら遠くのシワや傷や破れ目は、そうとは感じられなくても『今、ここ』のわたしたちに影響しています。何気ない日常を生きるわたしたちの成すこと、考えること、思いも同じように、遠くの誰かに影響を与えています。
そんな遠くのことは考えるのも面倒だし、考えなくても済むのだから考えたくない。ばかばかしい、と感じる方も大勢いらっしゃると思います。
わたしはそれでも構わないと思います。わたしも、いつもいつもそんなことばかり考えているわけではありません。
しかし、人の幸不幸、運の良し悪し、占いなどに携わっていると、この一枚の巨大な布のことを考えずにはいられなくなるのです。
ああ、この人の運勢の停滞は一体どこあたりからのしわ寄せで、どうすれば解消出来そうだろうか、とか
この人の望んでいることは、この人の行く末を却って悪くしてしまわないだろうか、とか
この人は一見ピンチに見えるけれど、実はすごいチャンスに直面しているように見えるぞ、とか
そんなことをつい、人間社会の一枚の巨大な布を思い浮かべながら考えてしまうのです。
何故なら、占いが介入しようがしまいが、しあわせはいつも人間関係からもたらされ、人間関係に表れてくるからです。
占いというのは、どんな時でもたいてい、人との関係を見るものです。根本的に人の運命や運勢は、人間関係と相互に影響を与え合っているのです。
あなた個人のしあわせも、運命や運勢の行く末も、一枚の巨大な布の中に含まれているものなのです。
畑を耕して、種を蒔いたから芽が出た、というような因果関係のはっきりしたものについては、占いは必要ありません。占いが扱うのはたいてい、因果関係の不明な変化や、思うようにいかない物事、未来など未知の領域です。ちょっとしたことで結果が良くも悪くもなり、一体どんな不可抗力が事態を邪魔するか予想もつかないような種類の物事です。
つまり、占いの時には、一人のことを見るのにその人の周囲だけでなく、もっと大きい時空の様相に思いを馳せることになります。
一枚の巨大な布のたとえで言えば、その人を中心として、もっと遠くのことまで。
そして、その遠くのことは、その人の思いや言動と無関係ではありえないのです。
*-*-*-*-*-*-*
人はしあわせに生きるべき、と思います。
そのしあわせは、何かしら気持ちが良いことを楽しむことで得られるでしょう。
しかし、わたしたちが人間関係・人間社会という巨大な一枚の布の一部である以上、他の人の幸不幸を無視してしあわせを成り立たせるのは不可能といっても過言ではありません。
自分の気持ち良さを求めるために他人を犠牲にしたら、その反動が必ずやってくる、というのはそういうことです。
と同時に、どこかでいいことをすると、いつかそれが自分に返ってくるものだということも、素直にうなづけることと思います。
わたしはここで、一枚の巨大な布の話を長々としましたが、こんな例え話をわざわざしなくても、誰でもみな、無意識にそのことは知っていて、自然に行動しているものです。
誰かに見られていなくても、悪いことをした時に罪悪感を感じたり、良いことをした時に気持ちよかったりするのがその証拠です。
だからわたしは、人がしあわせに生きたいと思ったら、その良心に沿って生きて行くのが一番ラクで効果的だと思っています。完璧な美しさを求め過ぎたり、乱れに無頓着だったりすると必ずどこかにしわ寄せが来ます。
人の心や人間関係には、適度な張りと、適度なシワがあるくらいが一番良いと思うのです。
完璧にシワなく巨大な布を敷くなんて、元々が無理なんですから。
あなたの振る舞いや言動が、他の人を楽しませているか、ラクにしてあげているか、ちょっと気をつけて吟味してみてください。
幸不幸も、運の良し悪しも、人間関係からやってきます。
占いに行くよりも、もっと簡単な解決法がすぐに見つかるかも知れませんよ。
人はいい気持ちを楽しむために生きるのだ、ということを書きました。
人は、いい気持ちになったり楽しんだりするためには、進んで苦労や困難をも引き受けるものだということ。
自分の楽しみや希望のためにする苦労や困難には耐えられるけれど、ただ面倒なことを回避するための苦労や困難は人を疲弊させてしまうこと。
自分が何を楽しく思い、何を心地よく感じるのかを見極めることが結構大事なこと。
それが分からないとしあわせになりにくいものだと書きました。
今日は、前の記事で予告しておいた『人は社会的な生き物である』ということについて書きます。
自分の気持ち良さを求めるために他人を犠牲にしたら、その反動が必ずやってくる、ということ。と同時に、どこかでいいことをすると、いつかそれが自分に返ってくるものだということも言えます。そんなことはきっと、みなさんご存知でしょうけど。
*-*-*-*-*-*-*
一枚の巨大な布を思い浮かべてみてください。そうですね、たとえば日本じゅうを覆うくらいの。
この布は薄い部分や厚い部分があったり、途中で継ぎはぎがあったり、破れかかっている場所や、真新しい場所もあるのです。
この布を、シワが寄らないようにうまく地面に敷こうとしたら、すごく難しそうだと思いませんか。
力の加減や地面の具合で布はすぐにシワが寄ってしまいます。あまり引っ張ると布の弱い部分や傷んだ部分が破けてしまうかも知れません。破けてしまえば、そこからまた力のバランスが崩れてしまい、布を真っ直ぐ歪みなく保つのは難しくなります。あっちを直せばこっちが歪み…。
ある一部分を綺麗にシワなく敷けたと思っても、どこか別の場所の歪みを直し始めたら、せっかく綺麗に敷けた部分も修正しなくてはなりません。いったん綺麗に敷けた場所を手直しするのがイヤだとしたら…途中のどこかで決定的な、とても大きな歪みが出来るのを仕方なしとあきらめなければなりません。布をより良く保つためには、いつもいつもどこかで調整や修正が必要で、どこか遠くの場所の調整や修正は、かならず「ここ」にも関係してきます。
もう、何のたとえ話をしようとしているのかお分かりだと思います。この巨大な一枚の布は、まるで人間の社会の振る舞いそっくりなのです。どこかで完全な美しさを保とうとすると、そのしわよせが必ず別の場所に行く。どこかで起こった破れは必ずここにも影響が及んでくる。新しくて分厚い場所は引っ張りにも刺激にも強くて、古く薄い場所はわずかな力が加わるだけで破れてしまう。強い布と弱い布を継ぎ足せば弱い布が先に破れる。強い布もいつか古びて弱くなる。弱くて破れた布は新しいものと交換される…
引っ張りに強い部分が多くなれば、その分だけシワのない美しい面を広げることが出来ます。大丈夫、と思ってある場所を強く引っ張ったら、そこからとても遠く離れた弱い部分で、すごく大きな破れが出来たりもします。良いことも悪いことも、この一枚の巨大な布のどこかで起こることは、他のすべての部分と無関係ではないのです。
*-*-*-*-*-*-*
この巨大な一枚の布のように、わたしや、あなたや、誰かがしたことは、直接的に、もしくは間接的に、どこかに影響を及ぼしています。
先述のたとえ話のように、強引に物事を成せば、その良いことも悪いこともどこかに何かの影響を与えるでしょう。強い部分はそれに耐えますが、どこか弱いところでその影響が表れたりします。物事が起きた場所と、影響が表れた場所は、全然無関係に思えるほど遠く離れているときもあるものです。
わたしや、あなたや、誰かの身の上に起こったことは、どこかで誰かが成した行為の影響を多かれ少なかれ受けている可能性があると言えるのです。たとえそれが直接的な因果関係として、目に見える形ではなくても。
例えば、あなたはいつも大嫌いな上司に理不尽に怒られているとします。ささいな、ミスとも言えないようなミスをことさらに取り上げて感情的に責めることで、その上司は自分のうっぷんを晴らしているように見えます。
その上司は、彼の奥さんが家で長々と愚痴をこぼした次の日に決まって、知らず知らずあなたに八つ当たりをしているのかも知れません。彼の奥さんは自分の容姿がコンプレックスで、子供を幼稚園に迎えに行った際に時々会う大嫌いな近所のママが、ど派手なピンク色のブラウスを来ているのを見ると我慢が出来ないくらいイライラして、ご主人であるあなたの上司に延々と愚痴をこぼしてしまうのかも知れません。ど派手なママは生理が近づくと何だかむしゃくしゃして、年甲斐も無いと思いながらついピンクのブラウスを着てしまうのかも知れません。どこかの見知らぬ女性の生理周期のせいであなたが怒られる羽目になるなんて、まったく馬鹿げていると思いますよね。でも、もしど派手ママがピンクのブラウスを着ていない時にはあなたが上司に怒られないのだとしたら…あなたと見知らぬど派手ママとの間には立派な繋がりがあると言えるでしょう。
例えばあなたが毎日会社に通うのはお給料を頂くためでしょうが、そのお給料は会社の製品やサービスを購入してくれる消費者のサイフから出てきたものです。あなたは貰ったお給料で別のものを買ったりして、一消費者として生活しています。
あなたの会社が作る製品がもし、外国の安い労働力によって作られているものなら、製品を作っているあなたの会社や、その製品を購入する消費者は、外国のたくさんの労働者を賃金によって養っている一方で、その国の同業他社を追い詰めていることにもなります。どこかの国の一人の労働者が職を失って、病気になっても医者にも行けず死んでしまったとしても、一体わたしたちに何ができるというのでしょう?わたしたちはその労働者の死に対してまったく責任はありません。でも……関係は、あるのです。
*-*-*-*-*-*-*
わたしたちは、他のすべての人たちや物事、あらゆる時空と、巨大な一枚の布のように繋がっているのです。
どこかで起こった犯罪は、罪を犯す方も、犠牲になる人の方も、わたしたちと無縁ではありません。どこかで起こった天災による被害も、どこかで人知れず亡くなってしまう命も、一枚の巨大な布のシワや、傷や、破れ目のようなものなのです。これら遠くのシワや傷や破れ目は、そうとは感じられなくても『今、ここ』のわたしたちに影響しています。何気ない日常を生きるわたしたちの成すこと、考えること、思いも同じように、遠くの誰かに影響を与えています。
そんな遠くのことは考えるのも面倒だし、考えなくても済むのだから考えたくない。ばかばかしい、と感じる方も大勢いらっしゃると思います。
わたしはそれでも構わないと思います。わたしも、いつもいつもそんなことばかり考えているわけではありません。
しかし、人の幸不幸、運の良し悪し、占いなどに携わっていると、この一枚の巨大な布のことを考えずにはいられなくなるのです。
ああ、この人の運勢の停滞は一体どこあたりからのしわ寄せで、どうすれば解消出来そうだろうか、とか
この人の望んでいることは、この人の行く末を却って悪くしてしまわないだろうか、とか
この人は一見ピンチに見えるけれど、実はすごいチャンスに直面しているように見えるぞ、とか
そんなことをつい、人間社会の一枚の巨大な布を思い浮かべながら考えてしまうのです。
何故なら、占いが介入しようがしまいが、しあわせはいつも人間関係からもたらされ、人間関係に表れてくるからです。
占いというのは、どんな時でもたいてい、人との関係を見るものです。根本的に人の運命や運勢は、人間関係と相互に影響を与え合っているのです。
あなた個人のしあわせも、運命や運勢の行く末も、一枚の巨大な布の中に含まれているものなのです。
畑を耕して、種を蒔いたから芽が出た、というような因果関係のはっきりしたものについては、占いは必要ありません。占いが扱うのはたいてい、因果関係の不明な変化や、思うようにいかない物事、未来など未知の領域です。ちょっとしたことで結果が良くも悪くもなり、一体どんな不可抗力が事態を邪魔するか予想もつかないような種類の物事です。
つまり、占いの時には、一人のことを見るのにその人の周囲だけでなく、もっと大きい時空の様相に思いを馳せることになります。
一枚の巨大な布のたとえで言えば、その人を中心として、もっと遠くのことまで。
そして、その遠くのことは、その人の思いや言動と無関係ではありえないのです。
*-*-*-*-*-*-*
人はしあわせに生きるべき、と思います。
そのしあわせは、何かしら気持ちが良いことを楽しむことで得られるでしょう。
しかし、わたしたちが人間関係・人間社会という巨大な一枚の布の一部である以上、他の人の幸不幸を無視してしあわせを成り立たせるのは不可能といっても過言ではありません。
自分の気持ち良さを求めるために他人を犠牲にしたら、その反動が必ずやってくる、というのはそういうことです。
と同時に、どこかでいいことをすると、いつかそれが自分に返ってくるものだということも、素直にうなづけることと思います。
わたしはここで、一枚の巨大な布の話を長々としましたが、こんな例え話をわざわざしなくても、誰でもみな、無意識にそのことは知っていて、自然に行動しているものです。
誰かに見られていなくても、悪いことをした時に罪悪感を感じたり、良いことをした時に気持ちよかったりするのがその証拠です。
だからわたしは、人がしあわせに生きたいと思ったら、その良心に沿って生きて行くのが一番ラクで効果的だと思っています。完璧な美しさを求め過ぎたり、乱れに無頓着だったりすると必ずどこかにしわ寄せが来ます。
人の心や人間関係には、適度な張りと、適度なシワがあるくらいが一番良いと思うのです。
完璧にシワなく巨大な布を敷くなんて、元々が無理なんですから。
あなたの振る舞いや言動が、他の人を楽しませているか、ラクにしてあげているか、ちょっと気をつけて吟味してみてください。
幸不幸も、運の良し悪しも、人間関係からやってきます。
占いに行くよりも、もっと簡単な解決法がすぐに見つかるかも知れませんよ。
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